アドミラル・ウシャコフ (海防戦艦)
アドミラル・ウシャコフ (Адмирал Ушаков) はロシア海軍の海防戦艦 。アドミラル・ウシャコフ級。
1892年6月16/28日[1]、建造開始[2]。1892年10月22日/11月3日起工[2]。1894年10月27日/11月8日進水[2]。
1897年9月、バルト艦隊のPractical Squadronに加わる[3]。1900年にはArtillery Training Detachmentに加わった[4]。
日露戦争中、ジノヴィー・ロジェストヴェンスキー率いる第二太平洋艦隊に続き、アドミラル・ウシャコフ級3隻も極東へ派遣されることになり、ニコライ・ネボガトフ少将に率いられて戦艦「インペラートル・ニコライ1世」、巡洋艦「ヴラジーミル・モノマフ」とともに1905年2月2/15日にLibavaより出発[5]。3月12/25日にスエズ運河を通過[6]。4月22日/5月5日にシンガポールを通過して4月26日/5月9日にロジェストヴェンスキーと合流した[7]。
5月14/27日から日本海海戦に参加。5月14/27日の昼戦では「アドミラル・ウシャコフ」は3発被弾してかなりの量の浸水があり、3名が死亡、4名が負傷した[7]。日没後、ネボガトフはアドミラル・ウシャコフ級3隻などを率いてウラジオストクへ向けて進んだが、損傷のため「アドミラル・ウシャコフ」は落伍した[7]。
「アドミラル・ウシャコフ」は単独でウラジオストクへ向かおうとしたが、5月15/28日午後、日本の装甲巡洋艦「磐手」と「八雲」が接近し降伏を勧告した[8]。この時の場所は隠岐の西約50マイルであった[8]。「アドミラル・ウシャコフ」のミルコフ艦長は発砲を命じ、戦闘を開始[8]。「アドミラル・ウシャコフ」は命中弾を与えられず、被弾し傾斜が増大したところでミルコフ艦長は自沈用の爆薬の起爆を命令[9]。「アドミラル・ウシャコフ」は沈没した[9]。339名が救助されたが、ミルコフ艦長を含め94名が死亡した[9]。
8月31日/9月13日、除籍[9]。
脚注
[編集]- ^ ユリウス暦/グレゴリオ暦
- ^ a b c "The Admiral Seniavin Class Coast Defense Ships", p. 50
- ^ "The Admiral Seniavin Class Coast Defense Ships", p. 57
- ^ "The Admiral Seniavin Class Coast Defense Ships", p. 60
- ^ "The Admiral Seniavin Class Coast Defense Ships", pp. 60-61
- ^ "The Admiral Seniavin Class Coast Defense Ships", p. 61
- ^ a b c "The Admiral Seniavin Class Coast Defense Ships", p. 62
- ^ a b c "The Admiral Seniavin Class Coast Defense Ships", p. 64
- ^ a b c d "The Admiral Seniavin Class Coast Defense Ships", p. 65
参考文献
[編集]- Stephen McLaughlin, "The Admiral Seniavin Class Coast Defense Ships", Warship International Vol. 48, No. 1, International Naval Research Organization, 2011, pp. 43-66